イイ国 鎌倉 歴史アラカルト よりぬき沿線新聞

イイ国 鎌倉 歴史アラカルト #3安達泰盛と鎌倉律寺文化

伊藤 一美(NPO法人 鎌倉考古学研究所理事)

 「鎌倉殿の13人」の一人安達盛長の子、景盛(大蓮房)は横死した源実朝を深く慕い、その供養のために菩提を弔っていった。その景盛の孫、泰盛もまた京都西八条の返照心院へんしょうしんいんを盛り立てていかれるよう支援し、「なおざりの事あらじと心安く思し召され候」と言い置いたという。これは本覚尼ほんがくにが後年の置文に記したものである。

大通寺(京都)写真協力 フネカワフネオ photo53.com

本覚尼とは坊門信清ぼうもんのぶきよの娘で3代将軍源実朝の正室である。実朝の死後、すぐ出家して京都西八条の故実朝邸を御堂とし、その後大通寺だいつうじ(返照心院)を建立する。開山に真空上人を招き、将軍家の祈祷所とした。本覚尼はその場所に因み「八条禅尼」とも呼ばれている。彼女は80歳の長寿を保ち、身寄りのない貴族・武士の子女らを多く寺に引き取って尼として育てていったことは有名だ。

真空上人は、三論さんろん・真言を醍醐寺・東大寺で学び、具足戒ぐそくかいは唐招提寺の覚盛かくじょうから承けた律僧であった。高野山金剛三昧院の5代目長老(建長7年・1255)を最初に、京都返照心院をへて、安達氏菩提寺の鎌倉無量寿寺長老に招かれ、文永5年(1268)同寺で入滅する。この背景には本覚尼と安達泰盛との大きなつながりがあることを想定できる。

安達泰盛の活躍した時代は2度の蒙古襲来、執権時宗の治世であった。時宗の烏帽子親として養女の堀内殿(義景娘・泰盛妹)をも娶せ、後に得宗とくそう嫡子貞時の外祖父となる。官職も秋田城介あきたじょうのすけ・陸奥守とその権勢は高まっていく。彼は文化面にも優れた働きを示す。空海が将来した仏典「御請来目録ごしょうらいもくろく」を開板(建治3年・1277)する。泰盛による高野山版の開板は、金沢称名寺僧による経典写本とともに武家による出版文化の代表であり、密教文化への多大な貢献者となっていく。書は世尊寺経朝せそんじつねともから学び、同流を継承する。

また高野山町石の建立は有名だ。町石ちょうせきとは、出発点の慈尊院から高野山大門まで登拝への道標である。仏塔だが五輪塔形をなす。優れた石工らの作品でもある。後嵯峨天皇・北条時宗・政村そして安達泰盛など多くの人々が奉納した。幕府支援の大行事といえる。

弘安7年(1284)時宗が死去する。子貞時が執権を継ぎ、泰盛が執政を進めていく。有名な「弘安徳政」という施策だ。だが貞時の内管領うちのかんれい平頼綱勢力により翌8年11月安達一族は粛正されてしまう。時に先の高野山町石奉納の直後であった。

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