鎌倉江の島七福神のススメ『大黒天』
江戸時代のお正月行事として一般化した七福神巡り。
鎌倉・江の島七福神は、お正月に限らず1年を通して参拝できます。
七福神にはそれぞれご利益があり、それぞれの神仏の出自を知ると、どんなご利益なのかがわかるのです!
江ノ電沿線新聞社発行の「七福神の伝来と鎌倉・藤澤 ~禍転じて福となす~(著者:大江昭子)」では、七福神の出自と伝来、そして、どのように私たちの町に伝えられて来たのかを知ることができます。
今回は「大黒天」の章から一部をご紹介します。
大黒天は、ヒンドゥー教の宇宙の破壊神・シヴァ神の化身ですが、破壊や殺戮だけを行うのではなく恩恵ももたらします。それはシヴァ神がリンガ(男根をかたどった像)で表わされることからもわかります。裕福な人にも徳を積んだ人にも、分け隔てなく破壊はやってきます。私たちにやってくる破壊と言うのは時の流れのことで、「死」は必ず訪れるけれど、シヴァは生命を生み出すと言うことを、リンガが象徴しているのです。
当初、諸々の鬼神や眷属を従えて夜間に屍の林の中を遊び歩き、珍宝や妙薬を人に与えるけれども、側に鬼神が隠れていて、それと引き換えに血肉を奪い取っていました。その代わり、陀羅尼の呪文を唱えたり酒食を供えたりしてもてなすと、人々を加護するとも言われていました。恐ろしかった大黒天は、仏教寺院で祀られるようになると性格が変わって行き、インドの諸大寺では、食厨の柱の側や食物の倉の門前に木彫の大黒天像を祀って常に油で拭いているので黒い色をしていると書かれていました。食事の度ごとにお香をたき飲食を供えるなら功徳が得られるとのことで、それが日本にも伝わったと考えられます。
日本に最初に大黒天を受け入れたのは、最澄(767~822)と言われています。延暦寺が造立した頃から大黒天信仰が見られ、大炊屋(食物の調理をするところ)に三面六臂の大黒天神像一体を安置し、守護神としたと記録があります。
袋を背負って全国を巡ったことや、弘法大師空海が大国を大黒に改めたことなどから、大国主命と同一視され習合されて行きました。狩衣に烏帽子、背中に大きな袋と言うのは、大国主神を一体視したものです。
大黒天の神使は鼠です。鼠は中国では霊獣とされていましたが、それに大国主命の神話が加わりました。素妻鳴尊が大国主命の能力を試そうとして、広い野原に行かせて野原の草に火を放ち、大国主命は逃げ場を失った時に鼠が現われて「この下に穴がある」と教え、穴の底に身を伏せて火がおさまるまで待って助かったというのです。
鎌倉の大黒天の巡拝所は長谷寺です。長谷寺は、一寺を詣でるだけで七福神全部をめぐることができるほど豊かな諸尊を安置しています。「出世開運授け大黒天」や「さわり大黒」等が「大黒堂」に祀られています。そして、応永十九年(一四一二)の銘を持つ神奈川県内で最古と言われる大黒天像は「観音ミュージアム」に収蔵されているので、出展時期を直接お問合せの上ご拝観ください。