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【いろんな人のぶんを読む。】えのぶーん『パブロバ・バレエスクール 日本バレエ発祥の地・七里ガ浜』

吉田 克彦(江ノ電沿線新聞会長

毎年、スイス・ローザンヌで行われるバレエコンクールで日本人のバレリーナが優秀な成績を残しています。今では全国各地のバレエスクールで20万人もの子どもたちがレッスンに励んでいるのですが、発端は七里ガ浜のパブロバ・バレエスクールでした。

取り壊し直前のパブロバ・バレエスクール 昭和60年2月 撮影:吉田克彦

七里ガ浜にバレエスクール

江ノ電沿線新聞は昭和51年9月1日に創刊。七里ガ浜にパブロバ・バレエスクールがあることを私が知ったのは昭和52年10月24日に放送されたNHKの「新日本紀行」“湘南電車通り”でした。この放送で七里ガ浜が日本のバレエダンス発祥の地であり、ナデジダさんがエリアナさんの遺志をついでバレエスクールを続けていることも知りました。また、ナデジダさんはインタビューの中で江ノ電の運転手さんと恵風園の看護師さんとのラブロマンスも紹介していたのが大変印象的でした。

それから9年後、バレエスクール跡に建てられた記念碑には次のように書かれています。

パブロバ記念碑とバブロバ記念館

「日本バレエ発祥之地」

「エリアナ・パブロバは大正九年 動乱の祖国ロシアを逃れて来日、昭和二年この地にバレエ・スクールを建てた エリアナは自分自身の舞台活動を通じて 日本にクラシック・バレエを紹介するとともに多くの舞踊家を育て 日本バレエ界の基礎づくりに貢献した

第二次大戦後 日本のバレエ界の発展を支えてきた人達の多くはパブロバの薫陶のもとに育った

昭和八年、日本に帰化霧島エリ子を名乗ったが 昭和十六年軍属として日本軍慰問旅行の途中 南京で戦病死 鎌倉市は市葬をいとなみのち靖国神社に合祀された

母ナタリア 妹ナデジダはエリアナを輔け エリアナの死後その仕事をついだナデジダは昭和五十七年この地で没した
昭和六十一年十一月吉日  エリアナ・パブロバ顕彰会」

亡命の果てにたどり着いた日本

1917年(大正6年)のロシア革命を逃れ、難民として日本に来たパブロバ一家(エリアナ21歳・ナデジダ14歳)は縁あって七里ヶ浜にロシア風のバレエスクールを併設した住居を建てたのでした。これは日本初のバレエスクールで、昭和4年に開校しています。

昭和12年にはパブロバ一家の日本への帰化が実現し母ナタリアは霧島蘭子、エリアナはエリ子、ナデジダは撫子を名乗りました。

支那事変が始まり、昭和16年にはエリアナは周囲の反対を押し切って門下生と中国に日本軍の慰問にでかけます。しかしエリアナは南京で病死し、無言の帰還となったのでした。

バレエスクールはナデジダが引継ぎ、苦難の日々をすごしますが、ここから多くの舞踊家が巣立ち、各地で活躍の場を広げていきました。その功績によりナデジダは昭和36年に神奈川文化賞を授与されました。

ナデジダさんは昭和58年に74歳で亡くなり、昭和61年にはパブロバ邸跡地に顕彰碑が建てられました。翌年には篤志家によって、顕彰碑に隣接してパブロバ邸を髣髴させる「鎌倉バレエ記念館」が建てられ、遺品なども展示されていましたが6年後の平成4年には諸事情により残念ながら閉館となっています。

悲願の“白鳥の湖”公演

「白鳥の湖」を踊る エリアナ・パブロバ

昭和15年頃にはバレエの公演やバレエスクールの運営が軌道にのって成人の団員も20人位に増えてきていたので、エリアナはかねてからの夢であった「白鳥の湖」の発表会を昭和15年11月12日に九段の軍人会館で上演しました。楽譜も揃わず全幕上演は無理で、第二幕を中心とした「情景」のみの上演でしたが、これは「白鳥の湖」本邦初演の快挙でした。この時エリアナの相手役・ジークフリート王子を勤めたのは入団間もない島田廣でした。

時局は戦雲急を告げており、エリアナは中国に慰問に出て帰らぬ人となり、日本に根付きはじめたバレエは受難の時代でしたが、戦中の軍国主義の日本でバレエの灯火を消すことなく守り続けてきたエリアナ門下生たちは、戦後間もなく「白鳥の湖」の全幕公演を目指してきたエリアナの遺志を継ごうと、その実現に動きだしました。

敗戦翌年の昭和21年4月20日、参宮橋の蘆原英了邸に東勇作、貝谷八百子、服部智恵子、島田廣、小牧正英が集まり「白鳥の湖」全四幕の上演が決定します。そして戦後バレエ界を牽引する「東京バレエ団」の結成を見たのでした。

興行は帝国劇場で8月9日から25日までの17日間の長期公演が決まり、食糧事情もままならぬ中で猛特訓が始まりました。バレエを愛する音楽家、美術、衣装、照明など多くの関係者が厚い情熱でこの公演を支えました。

8月9日午後5時、「白鳥の湖」全幕上演の幕が開きました。夢の舞台の始まりでした。第3幕のハイライトはオディールの32回フェッテ(片足つま立ちで回転する技)が日本で始めて上演されました。客席にはナデジダさんやナデジダさんとバレエスクールを守ってきた大滝愛子さんの姿もありました。この公演は連日満員の大盛況で、5日も延長され8月30日まで続けられました。

48年振りの再会

最初に触れた昭和52年放送のNHK「新日本紀行」“湘南電車通り”には様々な反響があったようですが、私の身近でも反響がありました。藤沢にお住まいだった阿部修子さんは、48年前に新潟に居られてナデジダさんが新潟に公演で来られたときにお世話をしたのでそのとき記念に写した写真を持っており、これを差し上げたいが江ノ電沿線にお住まいらしいので取り次いで欲しい…というお話でした。早速連絡を取り、お二人は久しぶりの再会を果たして尽きぬ想い出を語り合われました。

新潟公演時の阿部さんとナデジダさん

48年後に再会した阿部さんとナデジダさん

一つの文化が根付くまでにはこのような思いもかけない様々のドラマが繰り広げられるのですね。

参考書 『焼け跡の「白鳥の湖」』 小野幸恵著
※この記事は江ノ電沿線新聞2017年9月号に掲載されたものを再編集したものです。

現在、鎌倉市では潮風などにより劣化したエリアナ・パヴロバ顕彰碑復旧修繕のため、修繕費用を募るクラウドファンディングが行われています。

クラウドファンディングの詳細はこちら↓
https://www.furusato-tax.jp/gcf/1785

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