江ノ電沿線歴史散歩 二階堂(十二)
内海恒雄
「JR鎌倉駅」東口「八幡宮側」を出て京浜急行の大塔宮行きのバスに乗り、「大塔宮」で下車して「鎌倉宮(大塔宮)」の境内を横切り、左折して川沿いの道を行くと、左側に「永福寺跡」の史跡公園がある。入口から入ると、案内板には美しい苑池や三堂(阿弥陀堂・二階堂・薬師堂)の復元図がある。苑池や伽藍基壇の整備が行われており、前回述べた中央の二階堂の基壇の高さは石積み18センチ、土の舗装を含め、70センチとされている。
二階堂の南側の南複廊を挟んだ「阿弥陀堂」は、三間四面堂で、南北方向約19メートル、東西約12メートルである。基壇内部には、約40センチ程の版築の土があり、周囲には木の束柱が廻っていた。基壇の高さは、石積みや土の舗装で、約60センチとされている。
二階堂の北側の北複廊を挟んだ「薬師堂」は、三間四面堂で、南北約19メートル、東西約15メートルである。基壇の版築はあまり残っていない。周囲の木の束柱は44穴あった。基壇の高さは石積みや土の舗装で約60センチとされている。
他の伽藍としては、南北の「複廊」があり、二階堂と阿弥陀堂や薬師堂を結んでおり、南北共梁間約6・6メートル、桁行約24メートルと推定された。南側の梁間二間のうち、西側一間は部屋で、正面に蔀戸、背後に連子窓、側面に妻戸があった。東西には約1・8メートルの縁が付いた。複廊に基壇はなく、礎石や雨落ち溝に縁石などがあった。
薬師堂から更に北へ続く長い廊下は、「北翼廊」で、五間目で東への苑池の方へ曲がって伸びている。建物は梁間一間、南北の桁行五間、東西の桁行六間である。北翼廊の西から八間目の柱間は約4・5メートルと、他の柱間の約二倍あり、「北中門」と見られ、切妻造の四脚門である。
阿弥陀堂から南へ続く長い廊下は、「南翼廊」で、五間目で東の苑池の方へ曲がって伸びている。礎石はあまり残っていないが、北翼廊と比較・推定して、ほぼ同規模と見られ、南翼廊の西から八間目の柱間は約4・9メートルで、他の柱間の約二倍あり、「南中門」と考えられ、掘立柱の棟柱を持つ切妻造の四脚門である。
北中門の苑池に向かって伸びる北翼廊の先端に「北釣殿」があり、梁間一間(約3・3メートル)、桁行五間(約4メートル)の建物があった。釣殿周囲と苑池の汀線部分に多くの石組があった。
永福寺跡の伽藍以外の施設としては、三堂の背後に水路や板塀があった。水路は三堂の背後の山裾に、北から南に流下する3条と2条の溝が約180メートルあった。3条は創建当初のもので、幅1~1・5メートル、深さ最大60センチあり、2条は鎌倉中期に3条を拡大し、幅約2メートル、深さ1・5メートルあり、背後の西ケ谷や山の排水溝として設けられ、分水桝も見られた。水はテニスコート西側から二階堂川に注いだと見られ、現在苑池にも流下している。
三堂の背後に板塀があり、堂と背後の通路を隔てるため、掘立柱で直線に約100メートル、柱間は約2・1メートル程度と見られる。
永福寺跡の周辺では、東の道路や川を渡り、公開されていない東の山に登ると、頂上に永福寺跡を見下ろす所があり、「経塚」が発見された。経塚は、仏教の経典を地下に埋めたもので、平安中期に末法思想が広まる中で、末法が終わり、弥勒菩薩が下生するという56億7千万年後まで、経典を保存する目的で作られたが、往生や現世の利益とか追善供養などに変化していった。(続く)