江ノ電沿線歴史散歩 二階堂(七)
内海恒雄
「JR鎌倉駅」東口(八幡宮側)を出て京浜急行の大塔宮行きのバスに乗り、「大塔宮」で下車して、「鎌倉宮(大塔宮)」の左側の駐車場から小道を少し行くと、「覚園寺」がある。
前号で説明したが、覚園寺の前身の薬師堂が北条義時によって建てられたのは、将軍源実朝の殺害事件に巻き込まれて殺害される所を薬師如来に従う戌神将のお告げで助かったからだと言われる。実朝を殺害した頼家の子の公暁をけしかけたのは、公暁の乳母の夫三浦義村で、実朝と義時が殺害されれば、義村が政権を握ったことだろう。義時は実朝の殺害計画を知っていて、実朝が殺害されれば、公暁と義村を処分して執権体制強化を計ろうとしたと思われる。
大倉薬師堂は執権の北条時頼や時宗の帰依も受けたが、北条貞時により永仁4(1296)年に「元寇の賊」を討つため、覚園寺と改めて建立され、智海心慧を開山とした。当時の伽藍は、灌頂堂・護摩堂・仏殿・法堂・僧堂・庫院・山門・両廊などを備えた大寺院で、戒律を中心とした四宗兼学(真言・天台・禅・浄土)だった。
石段を上り、山門から境内に入ると、「紫式部の供養塔」と言われる大きな多層塔があり、「至徳3(1386)年」の年号が刻まれているが、覚園寺の話では京都引接寺の同年号の石塔の模造だろうと言われ、京都の知恩院や法然院にも同様の模造があるという。覚園寺の多層塔は、最下部の円形の台座に多数の地蔵を巡らせているのは疑問で、その上の四方仏や梵字も模刻という感じが強い。屋根は裳階の上に九層塔となり、最上部には相輪部の宝珠や請花に九輪などが見られる。
覚園寺は、時間を決めて案内され、拝観出来るが、境内の右奥には大楽寺不動堂を移した愛染堂がある。大楽寺というのは、鎌倉時代に浄明寺の胡桃谷に創建され、覚園寺の境内に移されている。覚園寺の山門は、鎌倉宮から覚園寺への途中の庚申塔がある三差路の辺りにあった。その左側の谷に大楽寺があり、現在覚園寺に移されている不動明王・愛染明王・阿閦如来などが祀られていたが、明治維新で廃寺となり、本堂の不動明王を祀る不動堂が覚園寺へ移され、愛染明王を祀る愛染堂となったのである。
愛染堂は桁行3間、梁間3間で、江戸時代の18世紀後期頃の建立と見られ、内陣が大楽寺不動堂だった部分で、丸柱が見られる。昭和3年に増築され、客殿形本堂として使われた。
本尊の愛染明王像は、像高98センチの寄木造で、玉眼を入れた彩色も豊かな南北朝時代の作と見られる。愛染明王は、人間の煩悩の愛慾貪染の心を浄菩提心に転化させるとして、信仰されている。頭には獅子の冠を被り、髪を逆立て、目は3つで瞋怒の顔は凄まじく、6本の手には金剛鈴・金剛杵とか弓・矢などを持ち、宝瓶の上の蓮華座に座っている。
大楽寺の本尊だった鉄造不動明王像は、像高57センチあり、鎌倉時代の作で、頭上に蓮華を載せ、髪を弁髪にし、目を嗔らせ、右手に剣、左手に羂索を持ち、火炎の後背が見られる。大山寺不動明王像の試みの不動と伝えられている。
阿閦如来像は、像高111センチの寄木造で、鎌倉時代の元亨2(1322)年の院興の作である。右手を前に出した施無畏印と、左手に薬壺を持つので、薬師如来と言われてきたが、胎内銘から阿閦如来像と分かった。(続く)