イイ国 鎌倉 歴史アラカルト #1御家人 安達泰盛と唐人捕虜
伊藤 一美(NPO法人 鎌倉考古学研究所理事)
安達泰盛の氏寺、甘繩無量寿寺に「流罪唐人」が留め置かれていた。弘安8年(1285)5月から7月までこの寺で仏書の講義が行われた。後に金沢称名寺長老となる劔阿がこれを聴講していた。まだ25歳の若僧だ。彼が残したノートには、その時聞いた仏典「大乗起信論」を自分なりに意味を解説した「釈摩訶衍論私見聞」記録(表紙のみ)が金沢称名寺(県立金沢文庫)に残されている。
その表紙裏には小さな字で漢詩が書かれていた。異朝に囚われの身となり、不自由ではないでしょうか、と尋ねる。唐人の返事には、唐朝とは遥かに隔たり、愁いはあるが、仏への結縁を求めている、とあった。
無量寿寺とは、いま鎌倉歴史交流館のある地区がその跡地の一部だ。この谷の入り口には安達氏の屋敷があったことが発掘で確定している。
ではその氏寺になぜ「流罪唐人」がいたのだろうか。時期的に見て、この唐人は弘安4年(1281)6月に博多湾へ侵入してきたモンゴル軍の一員で宋人捕虜なのだろう。
当時、安達泰盛は幕府御家人の第一人者(御恩奉行)として文永・弘安の役を指揮し、執権北条政村・時宗・貞時を支えてきた人物だ。特に「弘安徳政」を基盤とする幕府政策はその後の幕府政治を支えていくこととなる。
この甘繩無量寿寺や松谷文庫では密教や聖教の筆写をはじめ仏典の勉強会が頻繁に行われており、鎌倉真言密教融通の拠点と言ってもよいだろう。その活動を支援する中心となっていたのが安達泰盛であった。蒙古襲来を神仏の力で退散させようともしていた。御家人の武力のみならず、神仏までも動員する戦時体制であったのだ。貧しい九州の御家人竹崎季長の訴えを直々に聞きとめて、所領の安堵と帰りの馬を与えた。「蒙古襲来絵詞」に恩賞奉行としての安達泰盛の姿とともに描かれたことは有名だろう。
ではなぜ甘繩無量寿寺に「流罪唐人」が置かれていたのだろうか。その理由の一つは、真言密教寺院の僧侶たちの漢籍能力が異国人との意思疎通に動員されたと思われることだ。そして異国「蒙古」の情報収集がその目的であったと考えてよい。それは、これから以降、幕府滅亡まで「異国降伏」への祈祷と警戒を緩めることはなかったことからもいえることだろう。