カルチャー 鎌倉江の島七福神のススメ

鎌倉江の島七福神のススメ『寿老人・福禄寿 』

江戸時代のお正月行事として一般化した七福神巡り。
鎌倉・江の島七福神は、お正月に限らず1年を通して参拝できます。

七福神にはそれぞれご利益があり、それぞれの神仏の出自を知ると、どんなご利益なのかがわかるのです!

江ノ電沿線新聞社発行の「七福神の伝来と鎌倉・藤澤 ~禍転じて福となす~(著者:大江昭子)」では、七福神の出自と伝来、そして、どのように私たちの町に伝えられて来たのかを知ることができます。

今回は「寿老人・福禄寿 」の章から一部をご紹介します。

寿老人

福禄寿

ギリシャの星座で龍骨座りゅうこつざという星座の中のα、或いはラテン語では「カノープス」という星座があります。南半球の空にあるため日本ではほとんど見られず、あまり知られていません。この星は中国の占星術では寿命を司る星と言われ、「寿星」または「南極老人星」と呼ばれていました。この星を人格化したのが寿老人と福禄寿です。つまり、この2名の神は、本来は同じ神なのです。中国の南部でも稀にしか見ることができないので、世の中が平和な時にだけ出現するめでたい星だと信じられていました。

寿老人

中国では、宋代嘉祐年間(1058~1063)に、南極老人星が道士の姿に変身して、ちまたにあらわれたと言う伝説があります。背丈がわずか三尺ほどで頭と胴体が同じくらいの長さのの老人がいて、目は美しく、豊かな髯、質素な服で、占をして町で遊んで、お金が入ると酒を飲み、「私は人の寿命を支配する聖人だ」と語ったと書かれています。

福禄寿

北宋の仁宗皇帝時代の都に一人の老人が占いを始め、評判になりました。大変な酒豪で、噂を耳にした仁宗皇帝はその老人を宮廷に招き、お酒を酌み交わし、老人に歳を尋ねると「黄河が澄むのを度々見たことがある」と答えました。中国の黄河は常に濁っていますが、数千年に一度だけ澄み渡るという伝説があるので、この老人が数千年も生きていると悟ったと言います。その翌日、「帝座の近くにあったはずの寿星(南極老人星)が突如姿を消した」と報告が入り、寿星の化身である福禄寿だと知ったのです。

唐代になると、寿星は黒い頭巾を被って杖をつく老人の姿で描かれるようになりました。これが、日本の七福神の中の寿老人の姿です。杖には人の寿命が書かれた巻物が結び付けられ、鹿をしたがえていることがあります。

宋代になると、頭が異様に長く、豊かな白髭で、背の低い老人の姿で描かれるようになりました。それが福禄寿です。往時の中国では、「福」と言うのは幸運と子孫に恵まれること、「禄」は俸禄で、金銭に恵まれることや身分が高いこと、「寿」は健康で長生きすることでした。

寿老人の巡拝所である妙隆寺は、日蓮宗総寺院です。欅一本造りの寿老人が祀られていて、庭には石造もあり、どちらも鹿を連れています。

福禄寿の巡拝所は御霊ごりょう神社じんじゃです。創立は平安時代後期で、もとは関東平氏五家である、鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の五霊を祀った五霊から転じて御霊神社となったと伝えられています。現在は鎌倉・湘南地帯を開拓した領主、鎌倉権五郎景政公を祀っているので、権五郎神社と称されています。9月18日の例祭日に行われる「面掛行列」は、伎楽や舞楽・田楽の面をつけた十人衆が、古いいでたちで神輿とともにねり歩く県指定無形民俗文化財で、この十面の中に福禄寿が含まれていて、宝物庫に安置されています。

妙隆寺

御霊神社

7回に亘った七福神のお話、お楽しみ頂けたでしょうか。さて、ここで、簡単なクイズです。

  • 江島神社の弁財天は、何人の童子を連れているでしょう?
  • 十日戎二十日戎が行われるのは何月と何月でしょうか? また、なぜでしょうか?
  • 大黒天がネズミと一緒にいるのはなぜでしょうか?
  • 鞍馬寺で毘沙門天に祈って文武に励んだ、鎌倉ゆかりの武将は誰でしょうか?
  • 布袋尊はなぜ、弥勒菩薩の化身と言われるのでしょうか?
  • 福・禄・寿は、どうやって手に入れるのでしょうか?

クイズの答えは、江ノ電沿線新聞社から出版されている「七福神の伝来と鎌倉・藤澤 ~禍転じて福となす~」の本文中に書かれています。もっと詳しく知りたいと思った方は、是非、ご一読ください!

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