江ノ電沿線歴史散歩 二階堂(十)
内海恒雄
「JR鎌倉駅」東口(八幡宮側)を出て京浜急行の大塔宮行きバスに乗り、「大塔宮」で下車して「鎌倉宮(大塔宮)」の境内を横切り、真っすぐ進み「稲葉越橋」を経て道なりに曲がって少し行くと、左側には昭和7年に鎌倉町青年団によって建てられた「理智光寺址」の石碑があり、その大意は次の通りである。
「ここは願行上人を開山とする五峯山理智光寺の址である。建武2(1335)年淵辺伊賀守義博は足利直義の命令を受けて護良親王を殺害したが、その死に顔に怖れ、その首を傍の薮の中に捨てて、逃亡し、理智光寺の住僧がそれを拾って近くの山上に埋葬したという。」
理智光寺というのは、願行房憲静が開き、大塔宮の墓のある南西の谷を理智光寺谷と呼んでいる。
鎌倉時代の史料には、「理智光院」とあるが、南北朝時代以降「理智光寺」という。
江戸時代の『鎌倉攬勝考』によれば、「鎌倉時代の貞永元(1232)年に後藤大夫判官基綱が、源実朝の追善供養のために、大倉に寺を建て、供養の導師は定豪(鶴岡別当)という。」
江戸時代の『新編鎌倉志』によれば、
「理智光寺は土籠の東南にあり、本尊は阿弥陀で、腹中に胎内仏を納めるので、俗に鞘阿弥陀と言う。この寺には、大塔宮の位牌があり、元は浄光明寺慈恩院にあったが、理智光寺に移されている。」という。
南北朝時代の歴史書『太平記』によれば、「建武2(1335)年に渕辺伊賀守義博は、足利直義の命令を受けて、大塔宮護良親王を覚園寺のある薬師堂谷で、刺殺したが、親王の眼は生きている人のようだったので、義博はこのような首を主人には見せられないと、傍の薮の中へ投げ捨てて、帰ってしまった。理智光院の長老は、これは大変なことだとして、葬礼を取り営んだ。」という。
戦国時代の天文16(1547)年には、理智光寺が衰微して、浄光明寺の慈恩院が兼務か管理をしていた。
江戸時代には、東慶寺の末寺の尼寺になったり、阿弥陀堂のみとなって、本尊の阿弥陀仏は、明治初年に廃寺となると、覚園寺に移された。
理智光寺址の石碑の前には、小高い森があり、入口に「後醍醐天皇皇子護良親王墓」という石碑や玉垣が設置され、荘厳な雰囲気を漂わせており、「護良親王の首塚」と呼ばれている。正面には急な石段が見え、上ると石段が右に曲がった上に、「護良親王」の墓がある。周囲を玉垣で囲まれ、寄せ集めの宝篋印塔の一部が建てられている。この場所は理智光寺の境内と思われるが、現在は宮内庁が管理している。護良親王の墓の玉垣や石段などが整備されたのは、鎌倉宮創建当時の明治2年頃と見られる。
護良親王というのは、後醍醐天皇の第一皇子で大塔宮と呼ばれ、法名は尊雲で比叡山に入って天台座主となり、元弘の乱(1331年~)が起こると、僧兵を率いて六波羅探題の兵と戦い、のち赤坂城に入った。そして十津川や吉野に熊野等で反幕府軍を編成し、吉野で挙兵した。新田義貞に鎌倉攻めを行わせ、足利高(尊)氏と京都に侵入して、鎌倉幕府を滅亡させた。
建武の新政では、後醍醐天皇の下で、兵部卿と征夷大将軍になったが、次第に足利尊氏との対立を深め、後醍醐天皇の寵妃阿野廉子の讒言もあり、結城親光や名和長年に捕らえられ幽閉された。建武元(1334)年に鎌倉へ流罪となり、二階堂の東光寺に幽閉され、翌年殺害されている。
この辺りの取材には、小林なお子さんと水本貴子さんの協力に感謝したい。