江ノ電沿線歴史散歩 二階堂(十一)
内海恒雄
「JR鎌倉駅」東口(八幡宮側)を出て京浜急行の大塔宮行きのバスに乗り、「大塔宮」で下車して、「鎌倉宮(大塔宮)」の境内を横切り、左折して川沿いの道を行くと、左側に大正9年に鎌倉町青年会によって建てられた「永福寺旧蹟」の石碑があり、その大意は次の通りである。
「永福寺は人びとに二階堂と呼ばれた。今の二階堂という地名があるのは、このためである。文治5(1189)年頼朝は奥州出兵から凱旋すると、平泉の大長寿院の二階堂を真似てこれを建立した。その建物が立派なことは比べるものがない大伽藍だったという。享徳年間(1452~1455)関東管領(鎌倉公方の誤り)の没落以後は全く頽廃した。」
永福寺跡は史跡公園として整備されており、出入口は6カ所あり、「永福寺跡」の石碑の前後の辺りから入ると、案内図があり、苑池や三堂(阿弥陀堂と二階堂や薬師堂)が記されている。
案内板には「永福寺は源頼朝が文治5(1189)年に奥州平泉を攻めた後、奥州藤原氏や源義経など亡くなった数万の将兵鎮魂のため、建久3(1192)年に創建した寺院で、中心となる二階堂は釈迦如来が本尊で、北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂があり、一切経供養や万灯会等の法要が行われ、境内では歴代将軍の華やかな花見・月見・蹴鞠等の行事も行われた。境内には仏堂・翼廊・中門・釣殿・庭園が作られ、当時の平安貴族の邸宅を彷彿とさせる。東が正面で全長130㍍だったことが発掘調査でわかった。整備では創建当初の地盤を保護するため、60㌢の盛土の上に礎石を据えた。伽藍の南側には復元された池が大きく広がり、テニスコートの部分は未調査である。」と記されており、平等院鳳凰堂の極楽浄土を思わせる復元された美しい建物の図が色彩も鮮やかに描かれている。
苑池の池は、南北に約200㍍、中央がくびれた瓢箪型の水深約1㍍の池が確認された。三堂側には緩やかな洲浜の汀があった。汀線は砂利を敷き詰めて表現している。
池の水位は18・7㍍前後で、汀線に沿って変化に富んだ景石が見られ、汀線は創建当初から大きな変化なく池の上に出る景石は、露出している。池底にも砂利が敷き詰められている。池の南側と東側には池が広がっているが、未調査である。
池には遣水が北西の谷から引き込まれており、素掘りの溝で、長さ約35㍍、幅約1・8㍍~3㍍、深さ約20㌢、高低差約1・1㍍だった。水量を一定にするため、上流に分水桝を設けている。
池の中央には東西の反り橋がかけられており、橋の基礎材(ヒノキ属)や鎌倉石の橋脚基礎が池中から埋没していた。橋は長さ22・6㍍で、橋桁が乗る両脇の橋台のみ復元している。
池には南に広がる中程に中島があり、様々な石を集めていて、南北に約10㍍、東西に約5㍍、高さ約1・2㍍あった。
伽藍の整備では、三堂の基壇が復元されており、中央の「二階堂」は、方5間(約9平方㍍)で裳階(この建物は二階堂ではない)が廻らされ、南北方向の桁行7間(約24㍍)、東西方向の梁間7間(約22㍍)の仏堂である。基壇を構成する版築の土は、基壇の上部に15㌢程で、周囲の木の束柱は48穴あり、大きさは約23㌢だった。基壇の高さは石積み18㌢、土の舗装を含め、70㌢とされている。
二階堂の南側の南複廊を挟んだ「阿弥陀堂」は、三間四面堂で、桁行約19㍍、梁間(行)12㍍である。基壇内部には、約40㌢程の版築の土があり、周囲には木の束柱が廻っていた。(続く)