江ノ電沿線歴史散歩 二階堂(十三)
内海恒雄
「JR鎌倉駅」東口(八幡宮側)を出て京浜急行の大塔宮行きのバスに乗り、「大塔宮」で下車して、「鎌倉宮(大塔宮)」の境内を横切り、左折して川沿いの道を行くと、左側に「永福寺跡」の史跡公園がある。
公開されていないが、右側の川を渡り、山上に上ると、「経塚」は永福寺跡を見下ろすような所にあり、鎌倉初期のものが発見され、直径約1・2メートル、深さ約1・2メートルの穴の底から直径約35センチ、高さ約45センチの渥美焼の甕が捏鉢の蓋と共に据えられていた。甕の中には、銅製の経筒と共に女性用の櫛が10枚入った景徳鎮産の白磁の小壺や扇に数珠などが納められていた。ただ経巻は腐って無くなり、軸木が残っているだけで、作られた事情は不明である。しかし甕や捏鉢は鎌倉初期の12世紀末で、経塚が永福寺を見下ろす所に作れるのは、頼朝かその近親者しかなく、高貴な女性の持ち物が納められているので、筆者は頼朝の妻政子が作った経塚と推定している。なお4代将軍藤原頼経が寛元3(1245)年に永福寺の奥山に法華経を納めたということがあるが、鎌倉時代初期の経塚とは年代が合わず、後世に永福寺の周辺には、経塚が作られたことがあったのだろう。
永福寺というのは、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によれば、源頼朝が文治5(1189)年に、奥州から帰るとすぐ、奥州で見た藤原泰衡が支配した寺院にも負けない、鎌倉にも立派な寺院の建立を企てた。それは数万の戦没者の怨霊を宥め、三界(すべての人々が死後行く輪廻の欲界・色界・無色界)の苦しみから救うためだった。藤原氏の寺院が軒を並べる中で、二階大堂(大長寿院)を模範としているので、二階堂というのだろう。そしてこの年を「永福寺の事始め」というが、着工ではなく、計画発案程度のものだったようである。
建久2(1191)年、頼朝は大倉山(二階堂から西御門辺)の辺を歴覧して、寺院建立の霊地を得ようとした。これは一昨年奥州征服の時に、立願したもので、三善善信・二階堂行政・藤原俊兼等を奉行とした。
建久3年、頼朝は新造御堂で土木工事を見たが、土工の中に、平家の残党がいて、頼朝を狙って打ち刀を隠し持っていたことがあった。同年、堂の前に池が掘られ、京都から呼んだ庭作師の静玄により、池に石が立てられた。沼石や形石等には一丈(約3・3メートル)位あったが、畠山重忠は一人で持って、池の中心に立てて、見るものを感動させた。同年、惣門が立てられ、奥州の藤原秀衡建立の毛越寺金堂の円隆寺にならう二階堂の扉や仏の後壁の藤原季長の画が完成した。同年、二階堂の造営が完成し、伽藍は絶妙で比類がなく、西方の極楽浄土の荘厳を東国の二階の寺に遷したようだった。同年、頼朝の妻政子の参拝があった。永福寺(二階堂のみ)の供養が三井寺の公顕大僧正を導師として、頼朝以下の源家一門や御家人も多数参加して、曼陀羅供の形式で盛大に行われた。
建久4年、永福寺の中央にあった二階堂の南隣に、阿弥陀堂が建てられて、京都から招いた前権僧正真円を導師として頼朝が多数の御家人を従えて参列して供養が行われている。
同5年、頼朝が寺社の鶴岡八幡宮(寺)・勝長寿院・永福寺の御願寺に奉行人を置き、永福寺は三浦義澄・畠山重忠・義勝房成尋、同阿弥陀堂は中原親能・二階堂行政・武蔵大蔵丞頼平、同薬師堂(今新造)は毛利季光・三善康清・平盛時が任じられた。同年、二階堂の北隣に、薬師堂が造られ、前権僧正勝賢を導師として頼朝が多数の御家人を従えて参列し、供養が行われ、これで永福寺の三堂が完成した。(続く)