よりぬき沿線新聞 江ノ電沿線歴史散歩

江ノ電沿線歴史散歩 二階堂(十四)

「JR鎌倉駅」東口(八幡宮側)を出て京浜急行の大塔宮行きのバスに乗り、「大塔宮」で下車して、「鎌倉宮(大塔宮)」の境内を横切り、左折して川沿いの道を行くと、左側に「永福寺ようふくじ跡」の史跡公園がある。永福寺は、頼朝が創建したが、頼朝以後の将軍になると、法要も行われたものの、むしろ遊覧の場所として利用されている。二代将軍頼家は、正治2(1200)年、永福寺で、郢曲えいきょくという芸能を楽しみ、僧や稚児と釣殿で酒を飲み、お供の人は酩酊している。

「国史跡永福寺復元想像図」(CG制作:湘南工科大学 教授 長澤 可也)

三代将軍実朝は、建暦元(1211)年、北条泰時らを従えて、永福寺を訪れ、郭公かっこうの初声を聞こうとしたが、空しく帰ったが、二階堂行村を永福寺奉行とした。建保2(1214)年、僅かなお供と永福寺で桜の花見をしている。建保5年には、方違えのため、永福寺僧坊に行き、終夜和歌の会をして泊まり、翌日帰るが、僧坊に衣類を残し、和歌が添えられていた。

春待ちて 霞の袖にかさねよと しもの衣を置きてこそゆけ

四代将軍藤原頼経よりつねは、寛喜かんぎ元(1229)年、花見や蹴鞠を見て、和歌の会を行った。貞永じょうえい元(1232)年、雪見をして、釣殿つりどので和歌の会をした。寛元かんげん3(1245)年、如法経にょほうきょうを永福寺奥山に納めた。

宝治ほうじ元(1247)年、執権北条時頼の時に三浦合戦(宝治合戦)が起こり、時頼方に対した兄の三浦泰村は、最後の地として、頼朝の法華堂に入った。弟の光村は、永福寺惣門内に入って、従兵80余騎が陣を張った。光村は使者を泰村の所へ派遣して、「永福寺は非常に優れた城廓である。ここで一緒になって討手を待とう」というと、泰村は「たとえ鉄壁の城郭があっても今は逃れられないだろう。今では頼朝の御影の前で終わりを迎えたい。早くこちらへ来なさい」と言った。使者は再度往復したが、火急のことなので、光村は永福寺を出て、法華堂へ向かっている。このことから、永福寺は優れた城郭と見なされていることが分る。近年の発掘調査でも永福寺全体が中世の山城のような構えを持っていることが明らかになっており、三方が山だが、山城特有の尾根道には堀切という遺溝があり、前面には川が流れているので、川の守りも配慮されていると考えられる。

南北朝時代の歴史書『梅松論ばいしょうろん』などによれば、鎌倉幕府を滅亡させた足利尊氏の子足利千寿王せんじゅおう(足利義詮よしあきら)は二階堂別当坊に本陣をおき、成良親王なりよししんのうと共に下向して足利直義も二階堂別当坊に宿営し、「中先代の乱なかせんだい」を鎮圧して鎌倉に入った。

足利尊氏・直義兄弟もこの地に宿営していた。永福寺の城郭のような要害性を見れば当然のことだろう。

五代将軍藤原頼嗣よりつぐは、建長2(1251)年、永福寺で花見をしている。 六代将軍宗尊親王むねたかしんのうは、文応ぶんおう元(1260)年、永福寺で桜の花を見ている。永福寺は、弘安こうあん3(1280)年、延慶えんきょう3(1310)年、応永おうえい12(1405)年と火災で焼失して再建されたが、15世紀中頃には廃寺となったようである。

永福寺の史跡公園を出て、「通玄橋」という瑞泉寺への入口の示橋を渡って、瑞泉寺の受付の辺で、右の「天園」へのハイキングコースを少し上ると宅造地の中に、大正15年に鎌倉町青年団が建立した「永安寺跡」の石碑がある。(絶筆)

本稿「歴史散歩」を長年にわたりご執筆下さった内海恒雄先生は令和5年1月21日、急逝されました。心よりご冥福をお祈りいたします。

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