江ノ電沿線歴史散歩 二階堂(八)
内海恒雄
「JR鎌倉駅」東口(八幡宮側)を出て京浜急行の大塔宮行きのバスに乗り、「大塔宮」で下車して、「鎌倉宮(大塔宮)」の左側の駐車場から小道を少し行くと、「覚園寺」がある。
境内に入り、案内の人に従って進むと、薬師堂がある。北条義時の大倉薬師堂は、北条貞時が覚園寺に改め、開山智海心慧の嘉元4(1306)年の「置文」には、仏殿とあるが、建武4(1337)年に焼失し、足利尊氏が南北朝時代の文和3(1354)年に「異国(元)降伏」を祈願して再建したことが、現在の薬師堂の天井の梁牌銘に残されている。しかし仏殿(薬師堂)は、文和の仏殿の古材などを転用して元禄2(1689)年に改築され、その後の修理も見られた。
現在の薬師堂は、茅葺きの桁行5間に梁間5間の寄棟造で、入口には花頭型に枠取られ、桟唐戸を持つ引戸という禅宗様が見られる。堂内には天井に、典信の描いた丸い竜の図や足利尊氏と朴艾思淳の梁牌を掲げる。室町時代の古材は、正面の仏壇や脇壇に厨子とか柱などに残されている。丸柱の端を丸めた粽柱に斗や肘木の木組など禅宗様が多く見られる。
正面には薬師三尊像が祀られ、薬師如来は像高181センチで、南北朝時代頃と見られる。薬師如来は東方の瑠璃光浄土の教主で、手に薬壺を持って万病を治すと言われて信仰される。腹前に両手を組んで薬壺を載せ、顔の張りがたくましく男性的で、衣紋の表現も変化に富んで堂々としている。裳裾を長く台座に垂らすのは宋元の影響と言う。
脇侍の日光・月光菩薩像は像高約150センチで、日光菩薩の後頭部に仏師朝祐が室町時代の応永29(1422)年に造ったという墨書銘がある。両脇侍は髪を結い上げ、面長で優しい顔に切長の目をし、衣紋は複雑である。
左右には薬師如来の眷族(従者)という十二神将像が安置され、薬師如来を信仰する人を守護し、十二支に配され、昼夜十二時の護法神とも言われた。甲冑に身を固め、兜か炎髪で武器を持ち、憤怒相や動きのある姿勢で激しい力を示す。胎内の墨書銘に室町時代の応永8(1401)年から同18年の朝祐の作。北条義時ゆかりの戌神将のみは像高も低く、鎌倉時代からの古文書が胎内にあり、姿も古様なので、鎌倉時代の像という。
正面に祀られている開山の心慧上人像は、像高50センチで室町時代初期の作と見られる。よくまとまった丁寧な像で、顔の表情には精彩がある。
正面の寺院の建物を守る伽藍神像は、大権菩薩が左手を額にかざし、修利菩薩は右手に如意を持ち、大帝菩薩は胸前で笏をとり、いずれも応永25年の朝祐の作。
正面の右脇には、阿弥陀如来像があり、理智光寺の本尊で胎内に仏像を納めていたので鞘阿弥陀と俗称する。像高137センチあり、南北朝時代の作と見られ、土を練って型取りした衣の土紋がある。顔は穏和で、衣紋表現も巧みである。
薬師堂の奥には、旧内海家住宅があり、鎌倉市手広の名主住宅で、筆者は昭和30年代前半に所有者の内海賢弌氏宅を訪れ、住宅と古文書を見て関係者に連絡した。解体の時に梁の墨書銘が見つかり、宝永3(1706)年に鎌倉大工の渋谷吉兵衛精房らが柱立をした。寄棟造の茅葺で、左手に土間、居室は中央を前後に仕切る当時では珍しい先進的なもので、表に広間と裏に台所をとり、右手は納戸と前後した奥は竿縁天井の客間で専用の玄関があった。(続く)