えのぶーん コラム・その他

【いろんな人のぶんを読む。】えのぶーん『海開き』

吉田 克彦(江ノ電沿線新聞会長

湘南の夏は海開きに始まるといってもいいでしょう。このところ海開きは鎌倉では六月二十五日、江の島では七月一日が恒例となっていますが、この海開きのセレモニーを片瀬海岸で見てみますと先ず神事があり、次いで市長とあでやかな水着姿の海の女王たちがくす玉割りをし、レスキュー隊がデモンストレーションを行うといった按配となっています。ところでこうした「海開き」なる行事は何時からどうして始まったものでしょうか。

昭和九年に鵠沼海岸に滞在した奥田操さんは「七月五日頃午後海辺迄散歩に出掛けると、海の家の前の波打際の所で米俵を四つ置いて、丈夫そうな浜人が何か用意している。近づいて見ると此米俵の中に石が詰めてある。之を五十間程間をあけて揃へて沈める。それに浮標を付け其浮標に網を付け陸の杭に結び付けるのである。十日には海水浴場開きがある其準備の為である。……愈十日が来た。此日が海水浴場開きなのである。午後二時頃になると海の家の西横のよしづ張の舞台で餘興に藤沢藝者の舞踊があり、藤沢から委員連が来て海岸が賑ったさうだ。大磯の海水浴場開きは八日に行われ、相当賑わったことが新聞に出てゐた。鎌倉では龍のだしを造って確か十日であったろう街を練り歩いたそうな、これは久米正雄氏の考案とある」(当用漢字に変更)と書き残しています。昭和五十九年発行の福地誠一写真集に「海開きの日」という作品がありまして昭和三年(昭和七年の説もある)に撮影されたものとなっていますが、「この日は、藤沢から綺麗所が来て踊りを見せるのが恒例となっていた」と解説がついていますから、現在ではミス何とやらが出てこないと様にならない海開きも、当時は芸者が出てこなければ格好が付かなかったように思われます。

ところで最近は「海開き」と言われている行事は「海水浴場開き」が本来の意味でしょうが、「山開き」や「川開き」に倣って使われるようになったものと考えられます。昭和四年に片瀬海岸に海水浴場組合が誕生していますから、この頃から海水浴場開きが本格的に行われるようになったのではありますまいか。ちなみに明治十九年七月二十九日に鵠沼海岸で海水浴場が開かれるようになった経緯を小沢医師の記録にみてみますと「…(三留)栄三は海水浴の効能に医師として大いに共鳴し地元の人と協力して鵠沼海岸に海水浴場を開くため努力し、開場式を迎えた。当日、式場で祝杯をあげて初泳ぎに海に入り心臓麻痺を起して死亡。不幸にも海水浴水難第一号となってしまった。…」とあります。この開場式で安全祈願の神事がとり行われたのかどうか知りたいところですが、この文面からは読み取れません。しかし、海水浴場開きをやったのちに一杯やることだけは昔も今も全く変わりがないようですね。(04年1月)【吉田克彦 著「湘南讃歌より】

-えのぶーん, コラム・その他