イイ国 鎌倉 歴史アラカルト よりぬき沿線新聞

イイ国 鎌倉 歴史アラカルト #2安達氏の鎌倉屋敷から発見された高札

伊藤 一美(NPO法人 鎌倉考古学研究所理事)

今小路から佐助稲荷へ向かう無量寺谷入り口。鎌倉西小路遺跡内のマンション建設用地から木札が発掘された。裏に「文永二年五月日」の年号と9人の武士名が墨書されていた。

墨書高札(上)、赤外線写真(下)(鎌倉市教育委員会発行「鎌倉の埋蔵文化財」12号より)

「しゆくけい古(宿警固)や行はん(夜行番)きんし(勤仕)事」という書き出し、末尾には「みき、□□(勤仕カ)むね(旨)をまほり(守)て、けたい(懈怠)なく一日一夜御つとめあるへきしやう、如件」とあった。これは数日にわたる行事開催の警護役を武士らに命じた高札こうさつだ。名字には「あきま」「かせ」「うしをた」「かすや」「しんさく」「ささき」など、仮名文字で記されていた。これら名字は上野国(群馬県)・武蔵国橘樹郡たちばなぐん地域に出身や知行地ちぎょうちを持つ武士であることもわかってきた。地名無量寺谷は安達氏の氏寺名であることもよく知られている。安達氏初代の盛長、彼は鎌倉殿の13人の一人だが上野国奉行人から同国守護にもなっていく。

『吾妻鏡』には、幕府御所「廂番ひさしばん」という、御家人が御所の警固を務める役職があった。「一日一夜結番の事」と記され、やはり1~6番、各10名の編成で「一日一夜結番事」となっていた。ここには北条氏や御家人だけでなく京下りの貴族名もあった。先の幕府御所の警護役と一武士屋敷のそれとは段違いの編成だろう。出土した墨書板が仮名混じり表記であることもこの違いを示す。こうした高札板は台所に掲示するのが通例だった。

文永2年(1265)6月3日「秋田城介義景」の13回忌仏事が行われた(『吾妻鏡』)。若宮別当僧正隆弁そうじょうりゅうべんを導師に、無量寿寺で一切経いっさいきょう・十種供養などが3日間行われている。幕府御家人らも駆けつけ「聴聞仮屋」も設置された。説法最中に大雨となり、「仮屋」も傾いて男女がケガをしたという。「亀谷・泉谷所々」は山が崩壊し人馬が生き埋めとなったが無事だった。回向えこうのおかげだろう。導師には銭100貫文(約1、000万円)他多数の布施物が与えられた。

これだけ大がかりな回向行事は短期間では準備はできない。また安達屋敷ではこれらの準備に多様な物品と人の手配が必要だった。多数の聴聞客への接待品・精進落としの食物用意など、安達家の下人所従、中でも「台所」や「釜殿かなえどの」出入りの使用人らへ行事内容や指示伝達などが行われたはずだ。特に警護役担当者が誰なのかを知ることは重要だ。だから彼らも読める「仮名文字」で書かれていたのだ。ちょうど行事の1か月前に墨書木札が「台所」に掲示され、行事終了後に木札が「まな板」として下げ渡されたのだ。その証拠に裏側は「刀子とうす」の細かい傷がたくさんついていた。この地がまさに安達氏の甘繩屋敷であったことがほぼ確定したのだ。

-イイ国 鎌倉 歴史アラカルト, よりぬき沿線新聞