よりぬき沿線新聞 江ノ電沿線歴史散歩

江ノ電沿線歴史散歩 二階堂(四)

内海恒雄

「JR鎌倉駅」東口(八幡宮側)を出て京浜急行の「大塔宮だいとうのみや」行きのバスに乗り、「大塔宮」で下車すると、大塔宮で親しまれている「鎌倉宮」がある。

社殿の後ろに回ると、護良親王もりなが(もりよし)が幽閉されたという「土牢つちろう」があるが、実際はこの辺りにあった東光寺の中の土の塗籠ぬりごめ牢(座敷牢)と見られる。東光寺は、医王山いおうさんという山号で、前身の寺院は源頼朝が建立したと言われ、建久4(1193)年に永福寺ようふくじの傍に薬師如来を安置した寺院を建てたのが東光寺となったと言われる。

室町時代には、鎌倉五山に次ぐ関東十刹じゅっさつの一つの大寺院で、五山文学で名高い義堂周信ぎどうしゅうしん が護良親王を弔う詩を詠んだ。 江戸時代には、東光寺は廃寺となり、その後ろに護良親王の「土牢」が出現した。

南北朝時代の『太平記』によれば、「大塔宮御最後」という項には、建武2(1335)年北条時行(北条高時の子)により鎌倉を追われた足利直義(尊氏の弟)は、山ノ内を過ぎた時、渕辺伊賀守義博ふちのべいがのかみよしひろに「一旦鎌倉を退くが、軍勢を催して北条時行を亡ぼすことは出来るだろう。しかし足利家のために仇となるのは、大塔宮だ。死刑にせよ。という勅許ちょっきょはないが、このついでに殺害してしまおう。お前は薬師堂の谷へ行き、宮を殺せ。」と命令したので、渕辺は山ノ内より引き返し、宮のいる「籠の御所」へ行くと、宮はいつも闇の夜のような「土籠」の中で、朝になったのも知らず、灯を掲げて読経をしていたが、「渕辺がお迎えに参りました。」と、御輿おこしを庭に据えるのを御覧になって、「お前は私を殺そうという使いだろう。心得た。」と言って、渕辺の太刀を奪おうと走りかかったが、渕辺は太刀で膝の辺を打った。宮は半年ばかり籠の中にいたので、足が立たず、うつぶせに倒れ、立ち上がろうとする処を、渕辺は胸の上に乗り懸かり、腰の刀を抜いて首を掻こうとした。宮は首を縮めて、刀の先をくわえた。渕辺は刀を奪われまいと引き合ったので、刀の先が折れて失われた。渕辺は刀を捨て、脇差で胸もとの辺を刺し、首を落とした。

護良親王の入れられていたのは、「籠の御所」という座敷牢の「土の籠」であり、窟のような「土牢」でないことは明らかである。

鎌倉宮(大塔宮) 写真撮影 筆者

江戸時代の『鎌倉攬勝考かまくららんしょうこう』によれば、
「大塔宮土の牢」というのは、南北朝時代の『保暦間記ほりゃくかんき』や『梅松論ばいしょうろん』には、「土の牢」とは記されず、「薬師堂谷の御所に留め置く」とか「牢の御所」とも書いている。四面を禁錮し入れておけば、牢の御所であることは勿論であるという。

土牢から下りると、「鎌倉宮碑」という大きな石碑があり、一番上の篆額てんがくは陸軍大将や元帥の伏見宮貞愛親王ふしみのみやさだなるしんのうの字で、巌谷修いわやしゅうの撰文により、首相も務めた松方正義の書で、明治6年に明治天皇が鎌倉に行幸され、忠憤義烈ちゅうふんぎれつの生涯を送った護良親王の霊を祀る神社が建てられたことが記されている。

この辺りは近年庭園として整備され、小川に石や草木が配され、アジサイなど風情がある。「御構廟ごこうびょう」という洒落た木が置かれているのは、護良親王を殺害した渕辺義博が、親王の首があまりにも凄まじいので、この辺りに捨てたと言われる所で、理智光寺りちこうじの僧がその首を拾って埋葬したという護良親王のお墓(首塚)の方を遥拝ようはいする場所になっている。

明治天皇の事績を示す記念碑としては、「五箇条の誓文」があり、慶應4(1868)年に明治天皇が京都の紫宸殿ししんでん で発表した明治政府の基本方針で、公議世論の尊重や開国和親などを国内外に示した。(続く)

 

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