江ノ電沿線歴史散歩 二階堂(九)
内海恒雄
「JR鎌倉駅」東口(八幡宮側)を出て京浜急行の大塔宮行きバスに乗り、「大塔宮」で下車して「鎌倉宮(大塔宮)」の左側の駐車場から小道を少し行くと、 「覚園寺」がある。
境内に入って林の中を進むと、中世の面影を残している薬師堂がある。現在ではその奥は拝観できないが、鎌倉では少ない近世の名主の旧内海家住宅がある。
その奥には通常公開されないが、覚園寺の歴代住職の墓地があり、中央には開山塔と大燈塔が安置されている。開山塔は高さ371センチという大きな宝篋印塔で、基礎の部分に鎌倉末期の正慶元(1332)年に建てられた開山大和尚(智海心慧)の墓塔と刻まれている。石塔の中心部分と言える塔身部には金剛界四仏(阿弥陀・宝生如来など)の梵字と、基礎部には八大菩薩の梵字を刻むが、鎌倉時代の雄渾なもので、この時代を代表する石塔である。
大正12年の関東大震災には、塔の一部が転落して、遺骨や金属製容器などが出土したと言うが、笹塔婆しか現存しない。
昭和41年の解体修理には地下の石室から開山の骨臓器である灰釉古瀬戸草葉文壺を始め、基壇内部から黒釉壺・銅製五輪塔・無釉碗などが出土した。
心慧智海律師は、京都泉涌寺の法系で、願行上人の高弟であり、永仁4(1296)年北条貞時の請により、覚園寺の開山となった。11年間住職を務め、嘉元4(1306)年に亡くなっている。
開山塔と並び立つ大燈塔は、高さ358センチという大きな宝篋印塔で、基礎の部分には正慶元年に大燈大和尚(二世大燈源智)の墓塔と刻まれている。石塔の塔身部に金剛界四仏と、基礎部には八大仏頂の梵字を刻むが、共に鎌倉後期の特徴を示す見事な彫り方である。
覚園寺二世の大燈源智は心慧智海の弟子で、泉涌寺九世と言われる。昭和41年の解体修理には、金銅蓮華座安置の水晶五輪塔、褐釉双耳壺などが出土している。
開山塔及び大燈塔の背後には、歴代住職の墓塔が立ち並び、無縫塔25基と五輪塔などがあり、荘厳な雰囲気を持つ。
住職の墓地から戻り、旧内海家住宅の前を進むと、左に大きな岩穴があり、「やぐら」と呼ばれ、中は広くて十三仏を祀る。
少し進むと、千躰堂があり、千躰地蔵を祀っている。千躰地蔵というのは、源頼朝などが、戦没者の菩提を弔って、千躰の地蔵を祀り、法要を行ったものだ。覚園寺では後世の庶民信仰として、願い事があれば、地蔵の一躰をお借りして、家で日夜拝み、願い事が叶ったらもう一躰造って、寺に納めたというので、素朴な像が多く見られるのは面白い。
近くにある「無尽蔵」の額を掲げる地蔵堂には、黒地蔵で親しまれる地蔵菩薩像が祀られ、高さ171センチで、鎌倉時代の作である。黒地蔵というのは、地獄におちた罪人が責め苦として火を焚くのに代わったため、全身が黒ずんだというので信仰を集めている。
覚園寺を出て、鎌倉宮の方へ戻って少し歩くと、三差路があり、左側の庚申塔の前を上ると、山の斜面に多数の四角い岩穴があり、「やぐら」と呼ばれる鎌倉期から室町期頃の納骨窟だ。覚園寺の裏山を中心とした辺りは「百八やぐら」と呼ばれる。入口は閉鎖されていたが、納骨室だけのものなどもある。壁面には梵字に石塔とか仏像などの彫られたものや、天井に朱や緑で彩色したものもある。鎌倉の貴重な文化遺産として、保存する必要がある。覚園寺の取材にはご住職の格別なご配慮に感謝したい。