江ノ電沿線歴史散歩 二階堂(五)
内海恒雄
「JR鎌倉駅」東口(八幡宮側)を出て京浜急行の「大塔宮」行きのバスに乗り、「大塔宮」で下車すると、大塔宮と呼ばれて親しまれている「鎌倉宮」がある。
社殿の後ろに回ると、大塔宮護良親王が幽閉されたという伝説がある「土牢」を経て、明治天皇の事績を示す記念碑としては、「五箇条の誓文」に続いて「教育勅語」の碑があり、明治23年に発布され、戦前の教育の基本となり、儒教的徳目を基礎に置き、家族的国家観に立ち、忠君愛国を究極の国民道徳としており、天皇制の精神的・道徳的支柱とされた。石塔としては、「献茶の塔」があり、神に永久献茶の誠心を示そうとして、石の唐櫃に茶道具一式が納められ、小形の多宝塔は、寄せ集めの石だが、護良親王の皇子の日叡上人の師である日賢上人の供養塔と言う。
楠の林を出ると、鎌倉宮は明治2年に明治天皇の勅令により建立され、明治6年には天皇が参拝されているが、その時の行在所の一部が宝物殿となっている。
展示されているのは、熊沢観明の画と文による「護良親王御一代記」がある。
護良親王は後醍醐天皇の皇子だが、比叡山延暦寺で天台座主となり、後醍醐天皇などが鎌倉幕府打倒を企て挙兵して元弘元(1331)年に起こった「元弘の乱」には、僧兵を率いて六波羅探題の兵と戦い、赤坂城では破れたが、吉野で挙兵し、元弘3年には足利高(尊)氏軍と共に京都に攻め入った。建武の新政では、後醍醐天皇の下で征夷大将軍や兵部卿となり、足利尊氏と対立し、鎌倉に流罪となり、東光寺に幽閉されて、建武2年(1335)に殺害された。
宝物殿には護良親王ゆかりの直垂、佩用の剣、「消息(手紙)」や「令旨(親王の命令書)」などと伝える物がある。明治時代の有名な彫刻家で東京美術学校教授の山田鬼斉の代表作という「護良親王騎馬像」は大作で、「護良親王座像」も置かれている。馬堀喜孝筆の「土牢内読経の図」は想像されたものである。大塔宮500年忌に水戸藩主徳川斉昭が詠んだ「愚なる身も古へにうまれなば君がたのみとならましものを」という彩箋墨書がある。「天狗党の旗」は、文久3(1863)年に起こった尊皇攘夷運動の一つで、孝明天皇の大和行幸をお願いするため、水戸藩士が筑波山で挙兵した時のものだという。「日本国全土」という地図があり、明治初期には樺太・竹島・対馬などが日本国土となっている。歴代の連合艦隊司令長官の書があり、日露戦争の東郷平八郎とか太平洋戦争の山本五十六などが見られる。
幕末・維新期の幕臣の高橋泥舟の書があり、泥舟は幕府の講武所師範で伊勢守となり、新徴組を率いて上洛したこともあった。「鳥羽伏見の戦い」の後には、将軍徳川慶喜に恭順を説き、慶喜を警護した。
勝海舟という、咸臨丸艦長として渡米したり西郷隆盛と会談して江戸城の無血開城をして名高い人や、山岡鉄舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれた。
山岡鉄舟の書があり、鉄舟は剣術を好んで千葉周作に指導を受け、無刀流を開いて春風館という道場を設立し、多数の門人を育成した。幕府の講武所剣術心得から浪士取締役となり、高橋泥舟と共に江戸の治安維持に当たった。明治元年に官軍が江戸に迫ると、勝海舟の使者として駿府に行き、西郷と勝の会談を周旋して、江戸城開け渡しの道を開いた。明治時代には、茨城県参事や伊万里県知事などから明治天皇の侍従となった。