よりぬき沿線新聞

江ノ電開業120周年に寄せて~集電装置よもやま話~

代田良春(『鉄道乗り歩る記・撮り歩る記』著者)

※この記事は江ノ電沿線新聞3・4月号に掲載された記事を編集し、まとめたものです。

私は土木工学を学んだ、いわゆる「土木屋」である。それが電気のことを書くのは場違いと思われるだろうが、鉄道の技術は「土木」「建築」「電気」「車両」などが複雑にからみあっている。先日、江ノ電沿線新聞社の「タンコロ研究会」で古い映画の「天国と地獄」が写され、江ノ電とのかかわりが紹介された。

誘拐犯が電話をかけた場所の特定に江ノ電の走行音が決め手になるというものだが、この中で「いまどきポールを使っているのは江ノ電くらい――」というようなことが出てくる。時は昭和39年の東京オリンピックの直前、なぜ江ノ電はこんな時期までポールを使っていたのか。

そんな疑問は、江ノ電の線路や車両などの事情や、広くは時代背景にもつながり、また、思いは120年前の開業時の集電装置にもつながる。120年前の開業時、江ノ電の集電装置はビューゲルと呼ばれる、日本では最初に使われたものだった。当時の路面電車はポール集電であり、このビューゲルは当時の電気の専門誌に斬新かつすぐれたものだと紹介されたほどのものだったのだが、なぜ長く使われず、ポールに替えられてしまったのかは謎だった。

なんとなくそうではないかとは思っていたこともあったのだが、それが、昭和30年代になって、ポールからパンタグラフに改良しようとしたときに、まさに思い当たることが出てきたのであった。

このことについては、次回に述べることにして、江ノ電がパンタグラフに替えることが必要になったのは、車両の連結・連接化のためであった。昭和30年代に入り、戦後の復興が進むなかで、江の島・鎌倉への修学旅行などが増え、輸送量を増やすため1両で走っていた車両を2両連結する工事が進められた。当然、ポールで集電する電気量は2倍になる。ポールは先端についている滑車が架線から外れないように車掌が常に監視していなければならず、外れた時は紐を使って復旧しなければならないし、終点の折り返しでは上げ下げをする。ところが、雨の日に濡れた紐を伝って流れてきてしまう電流も2倍になってしまったのである。放置できない。ところが、パンタ化には様々な問題が待ち構えていた。結局、パンタ化はオリンピックの直前になってしまった。映画が作られたのはその少し前のことである。パンタ化がもう少し前に終わっていたら、この映画はどうなっていたのだろうか?(続く)


前月号に江ノ電の車両の集電装置をポールからパンタにするのに様々な問題があったと書いた。今回はそれについて触れてみたい。

車掌のところに漏れて流れてくる電流の増加には一刻も早い対応が必要だったが、そう簡単にはいかなかった。ポールは長いので、架線のずれにはかなり対応できるが、パンタは集電できる幅が限られている。そのためには、架線の支持点を増やさなくてはならないのだが、これが簡単ではない。特に腰越から先や長谷から先の、住宅に線路が近接しているような場所では、簡単には電柱を建てられるような場所は無い。それでも努力の末、ようやく見通しがついた所で新たな問題が起きた。

それは、鉄道を廃止するという話が持ち上がったのである。東京オリンピックの開催を前に道路の改良が進み、まだ自家用車がほとんど見られない時代のことだからバスの業績はうなぎのぼり、「同じ会社で電車とバスを並べて走らせるのはムダ、鉄道は無くても良いのではないか」という意見が一部の役員から出、当時の企画室に検討をするよう命じられたのであった(廃止計画については別の機会に記したい)。この時期、バスに押されて廃線となった地方私鉄は全国に数多い。

昭和38年4月にその最初の検討結果が報告されたのだが、結論は出ず、継続検討となった。しかし、オリンピック期間中は電車の乗客も見込まれるとして、パンタ化は進められたのであった。

鉄道の廃止の検討を命じられたのは、企画室の先輩2人と私の3人だった。3人はいずれも鉄道大好き人間、なんとかやめないで済む手立てはないかと、時間がかかる問題を提起し引き延ばしをはかる。そんな中、オリンピックが終わってわずか3年ほどで、交通状況が一変する。自家用車の急増による道路の渋滞である。渋滞の影響を受けてバスの業績は一変する。そして打撃を受けたのは各地の市内電車であった。しかし専用軌道を走る江ノ電には乗客が戻ってきた。江ノ電の廃止論はいつしか消え、藤沢駅のビル計画・線路の高架化に移ってゆく。そしてビルが着工した昭和47年には、道路交通の邪魔者として、荒川線を除く東京都電・横浜市電が全廃されてしまう。オリンピックをはさんだわずか十年足らずのうちにすさまじい交通状況の変化があったのである。

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