カルチャー 鎌倉江の島七福神のススメ

鎌倉江の島七福神のススメ『恵比寿』

江戸時代のお正月行事として一般化した七福神巡り。
鎌倉・江の島七福神は、お正月に限らず1年を通して参拝できます。

七福神にはそれぞれご利益があり、それぞれの神仏の出自を知ると、どんなご利益なのかがわかるのです!

江ノ電沿線新聞社発行の「七福神の伝来と鎌倉・藤澤 ~禍転じて福となす~(著者:大江昭子)」では、七福神の出自と伝来、そして、どのように私たちの町に伝えられて来たのかを知ることができます。

今回は「恵比寿」の章から一部をご紹介します。

恵比寿

恵比寿は、七福神の中で唯一、日本出身の神様です。恵比寿の出自には、ふたつの説があります。

ひとつめは「蛭子ひるこ」の説です。「古事記」や「日本書記」に同じような記述があり、それは、伊耶那岐命・伊耶那美命がみはしらを巡って、先に女神が喜びの言葉を発したから、陰陽の道理にかなっていなかったので、水蛭子みずひるこ(ブヨブヨのヒルみたいな子)が生まれたと言うような内容です。三歳になっても足が立たず、葦船(天磐櫲樟船あめのいわくすふね)に入れて流した、とあります。古事記にも日本書記にもこの後の記述はありません。でも、日本各地に、流された蛭子が帰って来て祀られるようになったと言う伝承があります。

もうひとつは「事代主神ことしろぬしのかみ」の説です。事代主神は、「古事記」では大国主神と神屋楯比売命かむやたてひめのみことの子で、「先代旧事本紀」の方では、高津姫命たぎつひめのみことの息子です。父である大国主神が天照大神あまてらすおおみかみにそれまで治めて来た葦原中国あしはらなかつくに(地上のこと)を譲った時に、事代主神もそれを受諾して姿を消したので、これを恵比寿だとする説です。

恵比寿は、狩衣かりぎぬと言う公家の着物に、指貫さしぬきと言う袴に、風折烏帽子をかぶり、左脇に鯛を抱えて、右手に釣り竿を持つ姿で、ビールのラベルを思い浮かべる方もいらっしゃることと思います。そして、その釣り竿は「釣りして網せず」、つまり、竿で魚を捕って、網で必要以上に魚を捕らない、暴利をむさぼらない、と言うところが商売繁盛の神たる由縁と言えるでしょう。

恵比寿の祭日は、西日本では十日戎と言って一月十日が多く、縁起物をつるした福笹を売ります。鎌倉でも、本覚寺は十日戎をやっていますので、この日に詣でるのも楽しいのではないでしょうか。東日本で多いのは二十日戎と言って一月二十日と十月二十日です。なぜ十月かと言うと、旧暦の十月は神無月ですが、事代主神は出雲を去ったので、恵比寿は出雲大社に赴かない「留守神」です。その恵比寿に感謝したり五穀豊穣、大漁を祈ったりしました。本来は漁業神ですが、東日本の多くでは農業神とも考えられていて、この時期に恵比寿が田畑での仕事を終え、戻って行くとされていましたので、ご馳走をならべて、一年間働いてくれた恵比寿にもてなしをして、来年も財運をもたらしてくれるように、と願いを込めました。

海に囲まれた日本では、昔から魚貝類を食べて暮らし、海上の安全と豊漁を祈っていましたが、やがて、室町期頃におこった商業機構の発展にともない、物々交換していた漁獲物が取引市場に持ち込まれるようになって、市場の神となった恵比寿は、商業繁栄の神にもなりました。

 鎌倉の恵比寿の巡拝所は本覚寺で、境内に戎堂があります。神仏分離で分かれる前は、道を隔てた斜向かいにある蛭子神社にありましたので、併せてお参りください。

本覚寺

七福神の伝来と鎌倉・藤澤 ~禍転じて福となす~
https://enodenensen.theshop.jp/items/55880836

鎌倉江の島七福神HP
http://kamakura-enoshima-shichifukujin.jp/

問合せ 鎌倉・江の島七福神会
(江ノ電沿線新聞社内)0466-26-3028(平日10時~17時)

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