よりぬき沿線新聞 江ノ電沿線歴史散歩

江ノ電沿線歴史散歩 二階堂(六)

内海恒雄

「JR鎌倉駅」東口(八幡宮側)を出て京浜急行の「大塔宮だいとうのみや」行きのバスに乗り、「大塔宮」で下車して、鎌倉宮(大塔宮)の左側の駐車場から小道を少し行くと、「覚園寺かくおんじ」がある。

入口に説明板があり、その大意は次の通りである。

「覚園寺は永仁えいにん4年(1296)に、開山は智海心慧ちかいしんえ律師、開基は北条貞時により建立された。

建保6年(1218)、2代執権・北条義時が、戌神将いぬじんしょうのお告げにより建てた薬師堂が前身だ。その後九代執権・北条貞時が、元寇が再び起こらぬことを願い、戒律を中心とした四宗(真言・天台・禅・浄土)兼学に改めた。

本堂の薬師三尊坐像と十二神将像じゅうにしんしょうぞうは鎌倉屈指の尊像だ。奥深い境内は静寂で、古都鎌倉の面影をよく残している。

地蔵堂の黒地蔵尊の縁日(八月十日)には、多くの参拝者が訪れる。」

覚園寺 写真撮影 筆者

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によれば、建保6年(1218)7月、3代将軍源実朝が左大将になって直衣のうし始めが鶴岡八幡宮で行われ、北条義時も供奉ぐぶしたが晩になって家に帰り休息していると、夢の中に薬師如来の十二神将の内の戌神将に「今年の神拝は無事だったが、明年の拝賀の日は供奉するな」と言われた。

義時は夢が覚めて、霊夢の告げる所を信仰して、寺を建立しようとした。弟の時房や子の泰時らは、人々の負担から反対したが、義時は「一身安全の宿願なので、人々に負担させない。まして先日戌の時刻には、薬師如来に従っている戌神のお告げがあり、どうして思い立った所を止められようか」と言われた。そして大工等を呼んで工事を始めた。

同年12月、義時が霊夢によって創建した大倉新御堂に、薬師如来像(雲慶作)が安置され、供養が行われた。導師は退耕行勇たいこうぎょうゆう(鶴岡八幡宮の供僧から寿福寺の2代住職など)で、義時以下の北条氏や二階堂行光等の御家人が多数参列した。

建保7年正月27日、実朝が右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮に参拝した。義時は御剣の役を務めていたが、鶴岡八幡宮寺の楼門に入った時、急に心神が悪くなり、御剣を源仲章みなもとのなかあきらに譲って退去し、神宮寺で休んで、小町の邸に帰った。夜遅くになって、実朝は神拝が終わり、退去しようとしたが、八幡宮別当の公暁くぎょう(実朝の兄頼家の子)に殺害された。

同年2月、義時は大倉薬師堂に参詣した。先月27日戌の刻、供奉した時に夢のように白い犬が御傍に見えた後、心神が悪くなったので、御剣を源仲章に譲り、退出した。ところが義時が御剣の役だと公暁は存知していたので、仲章の首を斬った。その頃、この堂の戌神は堂中にいなかったという。

公暁は実朝殺害の後、雪ノ下の本坊で長尾定景らに敗れ、後見人の備中阿闍梨びちゅうあじゃり宅に逃れて、三浦義村に使者を送り、「将軍が欠けたので、自分がその後任となるよう計略を巡らせ」と言った。三浦義村は「自宅にお越し下さい。迎えの兵を出しましょう。」と言って、北条義時に告げた。義時は「すぐに公暁を討て」と命令したので、三浦義村は長尾定景に討たせた。

以上の北条氏側から書かれたという『吾妻鏡』の記事から推測されるのは、義時は公暁が実朝や義時を討つことを事前に知っていて、大倉薬師堂の戌神将の霊験譚れいげんたんに置き換えたのだろう。(続く)

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